土曜日が一周年を迎へた


眠っている犬を見ると落ち着く
おなかのまわりのふかふかの毛並みがぽっかり浮かぶ雲みたい
雲の真似して山の中腹をぷかぷか浮いてみたい
いつも嫉妬ばかりしていたヘラが、うんとおめかししてゼウスの前に現れた回を思い出す。
あのあとふたりは愛し合って、ぷかぷか浮かびながら気持ちよく眠るのだ

何にも触れない感覚はどんなだろう
小さな頃、本棚の上に乗って飛び降りた
何度も何度も飛び降りた
お母さんに床が抜けると叱られた
学校の舞台からも飛び降りた
思ったよりも舞台は高くって、足がじんとした
何にも触れない感覚はドキドキする
自分に見合った速さで地面に吸い込まれる
あのほんの瞬間は、少し怖い
だから鳥は翼を使う
慣れたトンビは上手に落ちる
足がじんとしないように
怖い思いをしないように
ぷかぷか浮かぶ飛行船は誰でも乗れるわけじゃないし、ヘリウムガスでぱんぱんの風船はどこまで上がっていくんだろう

何にも触れず、ただそよ風だけを感じたいだけ
地面に吸い込まれることなく、足がじんとすることもない
やさしくて、お昼寝の夢みたいに気持ちが良くてあたたかい
眠っている犬を見ると落ち着く
おなかのまわりのふかふかの毛並みを見ると実はほんの少し浮かんでいるようでそこには小さな神様が眠っていた


utopia(どこにもない)

一匹、と言うより一頭と言った方がしっくりくるくらい大きなドーベルマンが街を歩いていた。
その時間は朝なのか、昼なのか、夕方なのかわからないけど、うっすらと靄がかかったような白くて優しい時間帯だった。
そして今思うとそこは街というより道の傍を植木で区画整理したような緑色の迷路で、その緑の向こうに人々は家を建て生活しているけど、ここからは見えない。
それぞれの家は緑に閉ざされた王国だ。

わたしもそんな街を散歩している最中で、そのドーベルマンにばったり出会ってからしばらく一緒に歩いた。
するとドーベルマンは、だんだん人の形に変化していって、すこぶるハンサムな男の人になった。イケメンよりもハンサムがいい。
彼は何も話さなかったが、宿屋の娘の恋人らしかった。
この緑の街にある、唯一茶色い場所。レンガ造りの建物が宿屋だ。

私は見たこともない宿屋の娘の姿を、レンガ造りの建物の前に、ドーベルマンの恋人と寄り添わせて想像した。
すごく美しいと思った。こんなに賢そうなドーベルマンのハンサムな恋人がいて、二人は静かに愛し合っている。
静かなものが美しいと思った。よく知らないものが美しいと思った。
憧れを感じた。このよく知らない静かな恋人たちを、強く美しいと思った。
映画に出てくる完璧な恋人たちもそうだ。街を歩いていて、ふと目にとまった恋人たちもそうだ。たまたま見た写真に写っている恋人たちもそうだ。昔の画家が描いた恋人たちもそうだ。
そういう恋人たちが、世界で一番美しいと思うのだった。

そして私は、自分は決してそういう美しい恋人にはなれないことに気付いた。
私は自分を生きている。恋人たちという、中身のない輪郭のみに憧れるのは悲しいことだ。

しかし、街で見かけた人が、何を考えて生きているのかなんて一生わからない。朝何時に起きて、何を食べるのか、あるいは食べないのか。歯磨きはご飯を食べる前にする?後にする?もしくは朝は歯を磨かないのか。テレビを観る?朝の番組は何を?ベッド?ふとん?部屋に絵や花は飾られている?清潔な部屋か?それともだらしない?

こんなことはどうでもいいのだ。どうでもいいことは美しさを阻害する。
背景なんて無い。そういった瞬間的な、切り取られた画だけが、恋人たちを美しくする。
空っぽの恋人たちの輪郭に、私たちは全力で美を見出す。
それは架空の美しさだ。わたしの憧れる恋人たちは、本当は実在しない。

それはなんとも不思議な美しさだ。それは、はりぼての街もなんだかいい、と思えることと似ている。
それは、ロイ・アンダーソンの映画に出てくるような作られた街や、夢に出てくる空っぽの街だ。シャガールの幼い頃に壊されてしまった街だ。街路があるように見えるが、家は一軒もない。
そういったものたちを私は堪らなく美しいと思う。実在しないものが、作られたものが、堪らなく美しいのだ。
そして、そういった美しさに対して抱く感情の名前を、私はまだ知らない。



ディス・オーシャン・イズ・キリング・ミー

小さい頃から水がすごく好きだ
飲むのも好きだし浸るのも好き
コップの中にちょこっと切り取られて入っている水はかわいい。
死ぬほど喉が乾いた時にごくごく飲む水ほど美味しいものはない。
お風呂は巨大なゼリーみたい。
着水するときのくすぐったい感触と、蛇口から糸みたいに流れる水が好き。
浴槽で肘からしたたる水滴が、一番綺麗に水面を揺らす。

かわいた髪を水につけるときのシャワシャワいう音を聞くと、なんだか悪いことをしているような気になる。でももうどうだっていい。
わたしはお風呂の底に潜って何も考えない。
ゼリーの中のミカンと同じだ。
わたしが何も知らずに気持ちよくいる間に、誰かが食べてくれたらいいのに。

お風呂の底はあまりに心臓の音がよく響いてこわい。
心臓の音なんて聞こえない方がよっぽどまともに生きている感じがする。心臓はいつ休むんだろうなんて、恐ろしいことを考える必要もない。
あまりにうるさくなる前に栓をさっさと抜いてしまおう。
お風呂のお湯はぐんぐん減っていって、わたしはゼリーから救出される。胸がくすぐったい。
わたしは浴槽の底にへばりついて、全く新しいクローン人間として起き上がる。生まれたばかりで身体がすごく重たい。もう何体目になるんだろう
最初はすごくだるくって、でもすぐにすっきりする。頭が痛いのも気づくと治ってる。ほんとうに新しく生まれ変わったみたい。あんなに水に浸かっていたのにコップの水が飲みたくなる。
コップの水は落ち着いていていい。
どこも濡らさずに水を飲むことができる。
ものすごい発明だ。
コップに手を突っ込むときの罪悪感は、きっとお風呂との違いからきているんだろう
飲むための水と浸るための水は違うのだ